天武・持統天皇陵とは?なぜ二人の天皇が同じお墓に眠っているの?


明日香村にある、天武・持統天皇陵

名前の通り、ここには天武天皇と持統天皇、二人の天皇が眠っています。

でも、どうして二人が同じお墓にいるのでしょう。

実は二人は夫婦。
そして、夫だけでなく妻も天皇になりました。

私にとっては昔から知っている場所ですが、改めて調べてみると、飛鳥時代の国づくりや女性天皇の存在まで見えてきました。

今回は、天武・持統天皇陵に眠る二人を、小学生にも分かるように辿ってみます。


目次

天武・持統天皇陵って、どんな古墳?

天武・持統天皇陵古墳があるのは、奈良県明日香村野口。

ここに眠っているのが、

第40代・天武天皇(てんむてんのう)と、
第41代・持統天皇(じとうてんのう)です。

正式には、
檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)
と呼ばれています。

そして、この二人。
続けて天皇になっただけではありません。

実は、夫婦でした。

夫が天武天皇。
妻が持統天皇です。

二人は飛鳥時代の国づくりを進め、亡くなったあとは同じお墓に葬られました。

さらに天武・持統天皇陵古墳は、2026年7月に世界文化遺産となった「飛鳥・藤原の宮都」を構成する19の資産の一つでもあります。 (文化遺産オンライン)

では、天武天皇と持統天皇とは、どんな人だったのでしょう。


天武天皇って、どんな人?

天武天皇は、天皇になる前、
大海人皇子(おおあまのおうじ)
と呼ばれていました。

そして母親は、前回のHistoryに登場した斉明天皇です。

ここで、少し歴史がつながります。

前回訪れた牽牛子塚古墳は、斉明天皇のお墓ではないかと考えられている場所。

その斉明天皇の息子が、今回の天武天皇です。

天武天皇を語るうえで欠かせないのが、
壬申の乱(じんしんのらん)。

672年に起こった、皇位をめぐる大きな争いです。

大海人皇子はこの戦いに勝ち、その後、天武天皇となりました。

天皇になると、国を治めるための新しい仕組みづくりを進めていきます。

今から約1400年前。
現在の日本につながる国の形が、少しずつつくられていった時代です。


持統天皇って、どんな人?

天武天皇の妻が、持統天皇。

持統天皇は、天智天皇の娘です。

つまり最初から「持統天皇」という天皇だったわけではありません。

天武天皇の皇后となり、夫を支えたあと、自分自身も天皇になりました。

私が日本の歴史を知っていく中で意外だったことのひとつが、

飛鳥時代には、女性の天皇が何人もいた
ということでした。

天皇というと、なんとなく男性を思い浮かべていたからです。

でも、飛鳥時代には、
推古天皇。
皇極天皇、のちの斉明天皇。
そして、持統天皇。
女性の天皇が何人も登場します。

文化庁の日本遺産では、飛鳥時代の天皇のおよそ半数が女性だったと紹介されています。
(文化財デジタルコンテンツダウンロードサイト)

もちろん、

「昔の日本の方が男女平等だった」
という単純な話ではありません。

当時と今では、社会も政治の仕組みも大きく違います。

文化庁の日本遺産では、飛鳥時代の天皇のおよそ半数が女性だったと紹介されています。

推古天皇、斉明天皇、そして持統天皇。
飛鳥の歴史を辿っていくと、国づくりの中で女性の天皇たちが大きな役割を担っていたことが見えてきます。


夫婦で進めた、飛鳥時代の国づくり

天武天皇と持統天皇は、ただ同じお墓に眠っている夫婦ではありません。

二人が生きた時代は、日本という国の仕組みが大きく整えられていった時代でもありました。

天武天皇は新しい国づくりを進めますが、その途中で亡くなります。

そのあと、天武天皇の意思を受け継いだ持統天皇は、694年に藤原京へ都を移しました。

藤原京は、中国の都づくりを参考に計画された、日本で初めての本格的な都城と考えられています。
(文化遺産オンライン)

さらに興味深いのが、
天武・持統天皇陵古墳の場所です。

現在の研究では、この古墳は藤原宮の中心を南北に通る軸の延長線上に位置しています。

明日香村の資料でも、これは偶然ではなく、緻密な計画のもとで藤原宮と一体的につくられたことを示すものとして紹介されています。 (明日香村)

お墓と都。

別々にあるように見えて、実は場所にも意味があったのかもしれません。


どうして二人とも「天皇」なの?

ここは、子どもには少しややこしいところです。

夫が天皇で、その妻も天皇?

天武天皇が亡くなったのは686年。

その後、持統天皇が政治を行い、690年に正式に天皇として即位しました。

つまり、

天武天皇の皇后だった女性が、その後、自分自身も天皇になった。

と考えると分かりやすいでしょう。

持統天皇は、単に「天武天皇の奥さん」だった人ではありません。

一人の天皇として、日本を治めた女性です。

そして夫が進めていた国づくりを、その後も進めていきました。文化庁も、持統天皇が天武天皇の国づくりの意思を継ぎ、藤原京の完成などを進めた人物として紹介しています。 (日本遺産)


どうして同じお墓に眠っているの?

天武天皇が亡くなったのは686年。

持統天皇が亡くなったのは703年です。

二人は亡くなった時期も違います。

それでも最後には、

同じお墓に葬られました。

現在、宮内庁はこの場所を天武天皇と持統天皇の合葬陵として管理しています。

でも、同じ場所に眠っているからといって、

二人がまったく同じ方法で葬られたわけではありません。

ここにも、興味深い違いがあります。


持統天皇は、火葬された

現地の解説板を見ると、石室の中にあったと伝わるものが紹介されています。

天武天皇のための棺(ひつぎ)

そして、
持統天皇の遺骨を納めた骨蔵器(こつぞうき)

どうして持統天皇には、骨を納める器があったのでしょう。

それは、
持統天皇が火葬されたからです。
持統天皇は、天皇として初めて火葬された人物とされています。

同じお墓の中に、
天武天皇の棺と、
持統天皇の骨蔵器。

二人は夫婦として同じお墓に眠っていますが、その葬られ方は違っていたのです。

明日香村の最新資料でも、石室には天武天皇の「夾紵棺(きょうちょかん)」と持統天皇の骨蔵器が並べて置かれていたことが、古い記録から分かると説明されています。
(明日香村)


この古墳も「八角形」?

牽牛子塚古墳の記事を書いたあとだったので、今回もうひとつ気になったことがあります。

「ここも、なんで八角形なんやろ?」

天武・持統天皇陵古墳も、
八角墳(はっかくふん)

現地で正面から見るだけでは、八角形の形は少し分かりにくいかもしれません。

でも調査によると、墳丘は八角形で、五段につくられていたことが分かっています。宮内庁書陵部の資料では、向かい合う辺の間が約37メートルとされています。 (書陵部)

現地の解説板には、

八角墳は、中国思想の影響を受け、天皇の権威を表すために日本独自につくられた

という説明があります。

日本で確認されている八角墳は、とても少数です。

明日香村には、

牽牛子塚古墳。
天武・持統天皇陵古墳。
中尾山古墳。

があります。 (明日香村)

前回の牽牛子塚古墳も八角形。
今回の天武・持統天皇陵も八角形。

続けて見てみると、
「どうして天皇のお墓は八角形だったんやろ?」
という新しい疑問が出てきます。

一つ答えが分かると、また次の「なんで?」が出てくる。
それも、歴史のおもしろいところです。


どうして「誰のお墓か」が分かるの?

飛鳥の古墳を見ていると、
「誰のお墓か分からない」
という話がよく出てきます。

石舞台古墳は、蘇我馬子のお墓ではないか。
牽牛子塚古墳は、斉明天皇と間人皇女のお墓ではないか。
キトラ古墳は、今も誰のお墓なのか分かっていません。

それなのに、なぜここは、
「天武天皇と持統天皇のお墓」
と分かるのでしょう。

その大きな手がかりになったのが、
『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』
という古い記録です。

難しい名前ですが、ここで大切なのは、
昔、このお墓が盗掘されたときの様子を記録した資料
だということ。

鎌倉時代に天武・持統天皇陵が盗掘された際の聞き取り記録で、そこにはお墓の形や石室、棺などについて詳しく書かれていました。

その写しが明治時代に見つかります。

そして記録と古墳を照らし合わせた結果、1881(明治14)年、現在の場所が天武・持統天皇の檜隈大内陵として定められました。 (書陵部)

古墳の形だけで、
「これは○○のお墓です」
と分かるわけではありません。

古墳そのものと、昔の記録。
いくつもの手がかりを重ねることで、誰が眠っているのかが見えてくるのです。


昔から知っていたのに、知らなかった場所

私にとって、天武・持統天皇陵は昔から知っている場所でした。

中学生のころには、下校途中に観光客から場所を聞かれることもあった。

それなのに、

誰がどんなふうに眠っているのか。
なぜ二人の名前がついているのか。
なぜ八角形なのか。

ちゃんと考えたことはありませんでした。

今回改めて訪れて感じたのは、

やっぱり、
静かだな。
ということ。

田んぼがあり、家があり、いつもの明日香の景色がある。

そのすぐ近くに、約1400年前に国づくりを進めた二人の天皇が眠っています。

観光地を見に来たという感じとは、少し違います。
歴史を知らなくても、何かを感じる。

それから、
「ここに天武天皇と持統天皇が眠っているんや」
と知る。

そんな順番でもいいのかもしれません。


娘たちにも知ってほしい、女性の天皇のこと

今回、私がもう一度歴史を調べていて、娘たちにも知ってほしいと思ったのが、
持統天皇の存在です。

約1400年前。

日本には、国を治めた女性がいました。
しかも、持統天皇だけではありません。
飛鳥時代には、推古天皇や斉明天皇など、何人もの女性の天皇が登場します。

文化庁が紹介する「日本国創成のとき―飛鳥を翔けた女性たち―」でも、女性たちは飛鳥時代の国づくりを担った重要な存在として取り上げられています。 (文化財デジタルコンテンツダウンロードサイト)

もちろん、約1400年前と今の社会を、そのまま比べることはできません。

それでも、
日本の歴史が大きく動いた時代に、女性が天皇として国を治めていた。
娘たちには、そのことを知っていてほしい。

いつか学校で「持統天皇」という名前が出てきたとき、
「あ、明日香にお墓がある人や」

と思い出してくれたら、それだけでも歴史が少し近くなる気がします。


現地で見てみよう

天武・持統天皇陵を訪れたら、少し立ち止まってみてください。

そして、こんなことを考えてみるのもおすすめです。

  • なぜ二人の天皇が同じお墓に眠っているのだろう?
  • どうしてお墓を八角形にしたのだろう?
  • 天武天皇と持統天皇は、どんな国をつくろうとしたのだろう?
  • 約1400年前、女性が天皇として国を治めていたのは、どんな時代だったのだろう?

全部の名前や年号を覚える必要はありません。

でも、
天武天皇と持統天皇は夫婦だった。
二人とも天皇になった。
そして今も、同じ場所に眠っている。

これが分かるだけでも、教科書に並んでいた二つの名前が、少し「人」として見えてくるように思います。


天武・持統天皇陵|アクセス・駐車場・トイレ

天武・持統天皇陵古墳は、明日香村野口にあります。

近鉄飛鳥駅からは徒歩約15〜20分。奈良県の公式観光サイトでは徒歩15分と案内されています。

また、明日香周遊バス「赤かめ」を利用する場合は、「天武・持統陵」バス停から西へ約450mです。

私は今回、近くにある鬼の俎・鬼の雪隠を見たあと、裏側から回って訪れました。

〒634-0145 奈良県高市郡明日香村野口45

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